回天詩
回天詩 藤田東湖
三決死矣而不死。二十五回渡刀水。
五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。
邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。
自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。
嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。
苟明大義正人心。皇道奚患不興起。
斯心奮発誓神明。古人云斃而後已。
○詩の読方
三たび死を決して而して死せず。二十五回刀永を渡る。
五たび閑地を乞うて閑を得ず。三十九年七処に徙る。
邦家の隆替偶然に非ず。人生の得失豈徒爾ならんや。
自ら驚く塵垢の皮膚に盈つるを。猶余す忠義骨髄を填む。
嫖姚遠期す可からず。丘明馬遷空しく自ら企つ。
苟しくも大義を明らかにし人心を正さば。皇道奚ぞ興起せざるを患へん。
斯の心奮発神明に誓ふ。古人云ふ斃れて後已むと。
みたびしをけつしてしかうしてしせず。にじふごくわいたうすゐをわたる。
いつたびかんちをこうてかんをえず。さんじふくねんしちしよにうつる。
はうかのりゆうたいぐうぜんにあらず。じんせいのとくしつあにとじならんや。
みづからおどろくぢんこうのひふにみつるを。なほあますちゆうぎこつずゐをうづむ。
へうえうていゑんきすべからず。きうめいばせんむなしくみづからくわだつ。
いやしくもたいぎをあきらかにしじんしんをたゞさば。くわうだうなんぞこうきせざるをうれへん。
このこゝろふんぱつしんめいにちかふ。こじんいふたふれてのちやむと。
○詩の由来
水戸学の気魄を知るに足る好資料は、藤田東湖の回天詩史と正気歌である。東湖、名は彪、字は斌卿、通称は虎之助、後誠之進と改む。東湖は其の号でぁる。出生の地水戸市梅香は、其の束仙波湖に臨むを以てかく号した。東湖夙に文武に勝れ、度量海の如く、大義を明らかにし、名分を正すを以て己が畢生の任と為し、国家の事変に遭遇する毎に常に死を以て自ら誓ひ、敢へて何ものにも畏れざるの気魄があつた。回天詩史に平素の覚悟を述べて曰く、「敬神・尚武を以て政教の根本と為し、以て尊皇攘夷の大義を明らかにするに至つては、之を鬼神に質して謬らず。百世其の人を俟つて惑はず。資性駑なりと雖も、冀はくは畢生の心を竭くし、終身の力を極めて事に斯に従ひ、上は国家の鴻恩に報い、下は以て先臣の遺志を述べんとす。所謂此の心を神明に誓ひ、斃れて而して後已む、これ吾が一分の衷念なり。」と。其の豪爽の英気、凛然たる忠烈、以て思ふべきである。
藩主烈公が、当時尊王愛国主義の政治家として、其の真価を発揮し得た所以のものも、東湖の如き忠孝の節高き傑士が、よく之を輔翼して、財政経済の改革、国防の充実、文教の刷新等に努めたからであることは云ふまでもない。
回天詩史と正気歌は、東湖の尊皇愛国の信念気魄を吐露したもので、筆端自ら慷慨淋漓、之を読む者、其の切々たる士節に嘆服興起せざるを得ない。
東湖は、不幸安政二年十月二日江戸大地震に遭ひ、母堂を屋内から救ひ出さうとして、激震と共に偶々落下し来つた玄関鴨居の為に圧死してしまつた。真に惜しいことであつた。然し孝道を全うした最後であると謂つてよい。
晩年の東湖は、恰も諸藩勤皇志士の思想指導の中心格に立ち、幕府の要路或は地方の俊傑と接触して愈々政治的に活躍せんとして居つたので、彼がも少し長命したならば、維新回天の事業の上にもつと具体的な政治的功績を挙げ得たことであらうに、誠に残念なことをした、天下の不幸であつた。然し東湖が、各方面に与へた思想的感化の偉大な功績は、幕末維新史上永久に残るであらう。辱くも明治二十二年二月、正四位を賜はつた。
回天詩は、弘化元年五月の作で、当時藩主烈公、幕府の冤罪を蒙り、致仕して江戸駒込別邸に謹慎の身となるや、東湖もまた小石川藩邸内に蟄居を命ぜられ、切々の感慨遂に此の詩をなしたものである。此の詩と、此の詩の精神を各句毎に往事を追懐して更に詳述した叙情史とを以て、回天詩史と名づくるものである。而して此の詩と叙述とは同時に作成されたものであることは、詩史の序に、「余の罪を獲て屏居するや、偶々『三決死矣不死』の句を得たり。既にして又其の韻に就いて『二十五回渡刀水』の句を●(「庚」+「貝」)す。一句を得る毎に往事を追懐し、感慨四もに集る。乃ち其の句に就きて事実を左に録す。此の如きもの連日にして遂に八韻十四句を成し、其の録も亦十一篇となれり。其の叙事或は類に触れて之を長じ、或は物に託して之を発す。固より悶を遣り欝を泄すの余に出づと雖も、亦以て世の変を観るべきなり。因つて命けて詩史と云ふ。冠するに回天の二字を以てするものは、微意の存するものあり。然れども、言頗る忌諱に触れ、事亦機密多し。敢へて之を他人に示すにあらず、聊か子孫に遣すといふのみ。」と述べてあるによつて明らかである。此の詩作の翌年には、小梅に徙され、更に正気歌を熱作した。
「三決死矣而不死」から「三十九年七処徙」までは、東湖三十九年間の半生の経歴を述べたもので、「邦家隆替非偶然」から「猶余忠義填骨髄」までは、主として水戸藩当時の事態や、東湖現在の境遇を述懐し、其の義憤を洩らされたものである。而して「嫖姚定遠不可期」から終の句までは、東湖が将来成さうとする志望を吐露したものである。
○詩の解説
自分は今禁錮の身となつて徐かに過去の生涯を回想して見るのに、これまで邦家の難局に処して死を決したことが三度もあるが、遂に死を得ずして今日に至つて居る。また夙くから国事に奔走し、屡々江戸・水戸の間を往来して、二十五回も刀根川を渡つた。公職を辞して閑地に就かうとしたことも五度もあつたが、それも叶はなかつた。過去三十九年間に、公事の為に家居を移すこと七度にも及んで居る。而して今測らずも藩公は禍に遭ひ、自分も亦茲に幽囚の身となつてしまつた。個人一身上ですら斯の様な変化である。我が水戸藩政の盛衰消長今日に至る誠に偶然ではない。人生得意となり失意となるのも決してただ事ではない。思へば益々感慨深きものがある。
自分は幽居既に数月に及び、身の不潔云ふばかりなく、皮膚を掻けば塵垢爪に盈ち、自分ながら驚くほどだが、烈々たる一片の忠義心はなほ内に潜み骨髄を填めて居る。自分のやうな不敏の者は、彼の漢武帝の臣霍嫖姚が匈奴を征すること六度、内蒙古の地をして漢に帰せしめた如き、又漢明帝の臣班定遠が西域に使して留ること二十年、域内を悉く漢に服せしめた如き大事業は到底為し得ないが、魯の史官左丘明が左氏伝を撰作し、或は漢武帝時代の学者司馬遷が史記を完成した例に倣ひ、専ら修史述刪に努め、以て大義名分を正さうといふ気魄だけは持つて居る。君臣の大義を明らかにし人心を正すといふことは、実に皇道振作の唯一の道である。自分は資質駑鈍ではあるが天地神明に誓ひ、畢生の心を竭くし、終身の力を極め、事に斯に従ひ、古人の云つた如く、斃れて後已むの決心を以て、此の志を達成しようと堅く期して居る。
三決死矣而不死。二十五回渡刀水。
五乞閑地不得閑。三十九年七処徙。
邦家隆替非偶然。人生得失豈徒爾。
自驚塵垢盈皮膚。猶余忠義填骨髄。
嫖姚定遠不可期。丘明馬遷空自企。
苟明大義正人心。皇道奚患不興起。
斯心奮発誓神明。古人云斃而後已。
○詩の読方
三たび死を決して而して死せず。二十五回刀永を渡る。
五たび閑地を乞うて閑を得ず。三十九年七処に徙る。
邦家の隆替偶然に非ず。人生の得失豈徒爾ならんや。
自ら驚く塵垢の皮膚に盈つるを。猶余す忠義骨髄を填む。
嫖姚遠期す可からず。丘明馬遷空しく自ら企つ。
苟しくも大義を明らかにし人心を正さば。皇道奚ぞ興起せざるを患へん。
斯の心奮発神明に誓ふ。古人云ふ斃れて後已むと。
みたびしをけつしてしかうしてしせず。にじふごくわいたうすゐをわたる。
いつたびかんちをこうてかんをえず。さんじふくねんしちしよにうつる。
はうかのりゆうたいぐうぜんにあらず。じんせいのとくしつあにとじならんや。
みづからおどろくぢんこうのひふにみつるを。なほあますちゆうぎこつずゐをうづむ。
へうえうていゑんきすべからず。きうめいばせんむなしくみづからくわだつ。
いやしくもたいぎをあきらかにしじんしんをたゞさば。くわうだうなんぞこうきせざるをうれへん。
このこゝろふんぱつしんめいにちかふ。こじんいふたふれてのちやむと。
○詩の由来
水戸学の気魄を知るに足る好資料は、藤田東湖の回天詩史と正気歌である。東湖、名は彪、字は斌卿、通称は虎之助、後誠之進と改む。東湖は其の号でぁる。出生の地水戸市梅香は、其の束仙波湖に臨むを以てかく号した。東湖夙に文武に勝れ、度量海の如く、大義を明らかにし、名分を正すを以て己が畢生の任と為し、国家の事変に遭遇する毎に常に死を以て自ら誓ひ、敢へて何ものにも畏れざるの気魄があつた。回天詩史に平素の覚悟を述べて曰く、「敬神・尚武を以て政教の根本と為し、以て尊皇攘夷の大義を明らかにするに至つては、之を鬼神に質して謬らず。百世其の人を俟つて惑はず。資性駑なりと雖も、冀はくは畢生の心を竭くし、終身の力を極めて事に斯に従ひ、上は国家の鴻恩に報い、下は以て先臣の遺志を述べんとす。所謂此の心を神明に誓ひ、斃れて而して後已む、これ吾が一分の衷念なり。」と。其の豪爽の英気、凛然たる忠烈、以て思ふべきである。
藩主烈公が、当時尊王愛国主義の政治家として、其の真価を発揮し得た所以のものも、東湖の如き忠孝の節高き傑士が、よく之を輔翼して、財政経済の改革、国防の充実、文教の刷新等に努めたからであることは云ふまでもない。
回天詩史と正気歌は、東湖の尊皇愛国の信念気魄を吐露したもので、筆端自ら慷慨淋漓、之を読む者、其の切々たる士節に嘆服興起せざるを得ない。
東湖は、不幸安政二年十月二日江戸大地震に遭ひ、母堂を屋内から救ひ出さうとして、激震と共に偶々落下し来つた玄関鴨居の為に圧死してしまつた。真に惜しいことであつた。然し孝道を全うした最後であると謂つてよい。
晩年の東湖は、恰も諸藩勤皇志士の思想指導の中心格に立ち、幕府の要路或は地方の俊傑と接触して愈々政治的に活躍せんとして居つたので、彼がも少し長命したならば、維新回天の事業の上にもつと具体的な政治的功績を挙げ得たことであらうに、誠に残念なことをした、天下の不幸であつた。然し東湖が、各方面に与へた思想的感化の偉大な功績は、幕末維新史上永久に残るであらう。辱くも明治二十二年二月、正四位を賜はつた。
回天詩は、弘化元年五月の作で、当時藩主烈公、幕府の冤罪を蒙り、致仕して江戸駒込別邸に謹慎の身となるや、東湖もまた小石川藩邸内に蟄居を命ぜられ、切々の感慨遂に此の詩をなしたものである。此の詩と、此の詩の精神を各句毎に往事を追懐して更に詳述した叙情史とを以て、回天詩史と名づくるものである。而して此の詩と叙述とは同時に作成されたものであることは、詩史の序に、「余の罪を獲て屏居するや、偶々『三決死矣不死』の句を得たり。既にして又其の韻に就いて『二十五回渡刀水』の句を●(「庚」+「貝」)す。一句を得る毎に往事を追懐し、感慨四もに集る。乃ち其の句に就きて事実を左に録す。此の如きもの連日にして遂に八韻十四句を成し、其の録も亦十一篇となれり。其の叙事或は類に触れて之を長じ、或は物に託して之を発す。固より悶を遣り欝を泄すの余に出づと雖も、亦以て世の変を観るべきなり。因つて命けて詩史と云ふ。冠するに回天の二字を以てするものは、微意の存するものあり。然れども、言頗る忌諱に触れ、事亦機密多し。敢へて之を他人に示すにあらず、聊か子孫に遣すといふのみ。」と述べてあるによつて明らかである。此の詩作の翌年には、小梅に徙され、更に正気歌を熱作した。
「三決死矣而不死」から「三十九年七処徙」までは、東湖三十九年間の半生の経歴を述べたもので、「邦家隆替非偶然」から「猶余忠義填骨髄」までは、主として水戸藩当時の事態や、東湖現在の境遇を述懐し、其の義憤を洩らされたものである。而して「嫖姚定遠不可期」から終の句までは、東湖が将来成さうとする志望を吐露したものである。
○詩の解説
自分は今禁錮の身となつて徐かに過去の生涯を回想して見るのに、これまで邦家の難局に処して死を決したことが三度もあるが、遂に死を得ずして今日に至つて居る。また夙くから国事に奔走し、屡々江戸・水戸の間を往来して、二十五回も刀根川を渡つた。公職を辞して閑地に就かうとしたことも五度もあつたが、それも叶はなかつた。過去三十九年間に、公事の為に家居を移すこと七度にも及んで居る。而して今測らずも藩公は禍に遭ひ、自分も亦茲に幽囚の身となつてしまつた。個人一身上ですら斯の様な変化である。我が水戸藩政の盛衰消長今日に至る誠に偶然ではない。人生得意となり失意となるのも決してただ事ではない。思へば益々感慨深きものがある。
自分は幽居既に数月に及び、身の不潔云ふばかりなく、皮膚を掻けば塵垢爪に盈ち、自分ながら驚くほどだが、烈々たる一片の忠義心はなほ内に潜み骨髄を填めて居る。自分のやうな不敏の者は、彼の漢武帝の臣霍嫖姚が匈奴を征すること六度、内蒙古の地をして漢に帰せしめた如き、又漢明帝の臣班定遠が西域に使して留ること二十年、域内を悉く漢に服せしめた如き大事業は到底為し得ないが、魯の史官左丘明が左氏伝を撰作し、或は漢武帝時代の学者司馬遷が史記を完成した例に倣ひ、専ら修史述刪に努め、以て大義名分を正さうといふ気魄だけは持つて居る。君臣の大義を明らかにし人心を正すといふことは、実に皇道振作の唯一の道である。自分は資質駑鈍ではあるが天地神明に誓ひ、畢生の心を竭くし、終身の力を極め、事に斯に従ひ、古人の云つた如く、斃れて後已むの決心を以て、此の志を達成しようと堅く期して居る。
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